夜の踊り場

自作小説を置いていきます。

さよなら世界

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    桜が散っていくのが嫌なので春を止めてしまった。そして私たち以外が息をしているのもなんか許せなくて、みんな消してしまった。 


 世界には私と久我くんしか居なくなった。
 誰も動かしていないのにダイヤに沿って勝手に動く地下鉄に乗って、無機質に響くアナウンスを耳に、私と久我くんはお互いにお互いを認識するように対面に座る。例え私たち以外の全人類が消えた状況でも、公共的な場所ではお喋りはあまり良くないから、私たちは喋らない。トンネルの中をゴォーと走る電車の音が空間を埋める。 


 地下鉄を降りて地上に出る。暖かな春の日差しがキラリと私たちを照らしつけ、のどかな風が傍を通り抜けていく。一生こうだったらいいのに。一生こうにしたんだった。
 川沿いまで歩くと、そこは大きな桜の木が幾本と立ち並んでいて、石造りのレンガで補正された河川敷はピンクの絨毯が敷かれているかのように、桜の花びらで占められていた。
 近くに構えていた屋台の売り物を、料金を支払い(誰もいなくても対価は支払うべきだ)、河川敷で座って食べる。美味しいね、と久我くんが言うので、私はあんまりそうだと思わなかったけど、美味しいね、と返した。夜には月明かりが照らす桜を肴に、コンビニで買ってきたお酒を飲んで、夢見ごこちになる。久我くんはお酒に弱いようで、あんまり気持ちよさそうではなかった。誰もいないから街灯以外の電気がつかないね、桜がよく映えるね。そのうちきっと人工的な光が全部消えて、月だけが私たちと桜を照らしてくれるんだよ、素敵だね。
 そうだね、と浮かない表情で久我くんは応えた。 


 久我くんはだんだんと嫌な顔をするようになってきた。もうそろそろ全部元に戻してもいいんじゃないかって。私はそれに賛成しなかった。久我くんと私はずっとここにいて、終わらない春をずっと楽しむんだよって。
 
 そんなことさせるものか。
 
 久我くんは顔を真っ赤にして怒って、桜の絨毯をぐしゃぐしゃに荒らして、屋台にあったハサミで私を刺し殺そうとしてきた。
 でもそれは無意味。なぜなら私と久我くんしか今この世界にはいなくて、この世界を作ったのは私だから。久我くんの身体は足の先からだんだんと桜の花びらに変わっていく。手のひらも花びらになって、ハサミがその中に埋もれていく。胴と顔だけになって、さっきまでの勢いと自然落下により、私の元へ久我くんがやってくる。ぎゅっと抱きしめた頃には、久我くんはもう他の花びらと区別がつかなくなっていた。
 一人ぼっちになってしまった。それは良いことなのかと言うと良くないことなので(人は支えあって生きていくものだから)、久我くんをすぐに再生した。
 久我くんはぺたんと尻もちをついて、記憶が移されただけで、今の俺は前の俺とは違うんじゃないか、と言ってきた。
 さあ、わかんないよ。
 でもそんなことはどうでも良くて、一緒にいることの方が大事で、喧嘩をせずに、楽しいことだけ話して、お酒を飲んで、嫌なことは忘れて、桜の匂いに包まれて永遠に過ごそう。この桜だけで私は過ごしていけるし、それさえあれば他はいいんだよ。
 久我くんは首を振る。「僕には無理だよ、そんなこと。僕は君とは違うから、この桜だけで永遠に過ごすことは出来ない」
 そうやって私には再生が出来ないように、久我くんは自分で自分を粉々にして、桜の花びらにしてしまった。本当の本当に桜の絨毯の中に紛れてしまって、次の日になるころにはもう二度と元に戻すことは出来なかった。自分でそれをするのはすごく大変で難しいことなのに、久我くんはそれをやって見せたのだ。何度も再生が出来ないか試みたけど、やっぱり駄目だった。


 川に浮かんだ桜の花びらが、どんどんと下流へ下っていく。そんなに遠くに行ってしまっては、私ではそこにたどり着けないんじゃないかと思いが積もる。
 私しかいない世界で、行けない場所なんてないはずなのに。
 はぁ、とため息をつく。仕方ない。消した人類を全て再生して、春を進ませよう。
 それは久我くんを再生させるより少しだけ面倒なことだけど、どうにも出来ない事でもない。


 いつか久我くんがこの世界に再生されるまで、彼の想いを聞き届けることにしたのだから。

死体逃避行

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 「やあ」

 「来ちゃった」

 

 数日前の僕なら彼女に自宅の玄関先でそんな言葉を言われたらドキドキが止まらないことだっただろう。冷蔵庫に飲み物なんて大して入ってないし、ろくな暇つぶしの道具もないからしどろもどろしていたに違いない。「ちょっとまっててくれる?」と言って彼女を置き去りにして、床に転がった空き缶やスナック菓子の空き袋を全部一つのごみ袋に緊急避難させていたはずだ。

ただ。

今回ばかりは、そうはならなかった。

なぜなら彼女は、本来ならば病院の地下、薄暗く冷えたあの部屋の中で、静かに眠っているはずだからだ。

 

彼女———上下里めぐるは、ついこないだその命を亡くしたのだから。

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 それはどうしようもないものだった。

めぐるは昔から病気に弱く、入退院を繰り返しては徐々に健康な生活を減らしていく日々。

「成人を迎えられるほど、きっと長くは持たないと思います」 小さいころ、医者から言われていたらしいその絶望にも近い余命宣告は、その通り現実となった。

 

僕とめぐるは、僕が高校のころに大けがをして、しばらく入院生活を余儀なくされていた時に初めて面識を持った。

何をすることもなく、暇な病院生活を過ごしていた僕は、中庭のベンチに座ってぼーっとスマホを見るのが日課になっていて。そんな時に彼女に声をかけられたのだ。

「こんにちは。私、かみさがりめぐるっていうんだけど。もしよければ話し相手になってくれませんか?」と。

長らく入院していることもあってか、あまり病院以外の場所のことがわからないようで、僕みたいに入院してきた人の話を聞くことが日々の楽しみになっていたんだそう。いつもは年寄りの話が多いから、こうやって同い年くらいの人が来たときは特に興味を持ってしまうとも言っていた。

「不謹慎だけどね」と、付け加えて。

高校生が同年代の女の子を意識しないわけがなくて、しかも顔も整っていためぐるに、僕はすぐに気を許した。そして自分の身の上話とか、学校生活のことをたくさん話した。

正直、平平凡凡な生活を送っていた僕の話なんてそんなに面白いものなんだろうか、と思っていたけれど、彼女はどんな話も興味のある目で、まるで小さな子供のような純真なまなざしで僕の話を聞いてくれていた。

 

三ヵ月の間にはもうすっかり仲良くなっていて、僕は退院してからも彼女の病室を訪れるようになっていた。

「今日はどうしたの?」

そうやって楽しげに笑う彼女の顔を見ることがいつのまにか僕の楽しみにもなっていた。

______________________________

 

 

 

 「なんでかわかってたら苦労はしないよ」

午前五時。「部屋にいるより外に出たい」と言って、朝靄がかかった町のなかを僕と歩き、青白くなった腕に目線を送りながら、めぐるは笑みを浮かべる。

確かにその顔は生前のそれと寸分たがわない。毎日のように見ていたあの笑顔と同じだった。違うのは顔色だけ。

死んだ人間の生命器官が再び動き始めるなんてどんな超常現象なのか僕のあずかり知るところではないけれど、安置室で冷え切った彼女の体は見事なまでに血の気がなかった。

「でもこうやって足動かして歩いちゃってるわけですし」

まるで今の自分の状態など気にも留めてないようなからからとした声は、何日か前に聞いた衰弱した声ではなくて、僕が初めて彼女と話した時と同じだった。

「それにね」

「こうやって外に出たいって、ずっとおもってたから」

歩調を変えることなくめぐるは先へと進み、くるんと僕の方へと向き直る。

「もしかしたら誰かが願いを叶えてくれたのかもね」

彼女の着ている服が風になびく。

彼女の歩く道の先に、季節外れの寒そうな海が広がっていた。

 

 

 さざ波が僕らを迎え入れる。

生前に海をその目で見たことのない彼女は、その広さと圧倒的な存在に感嘆の声ばかりをあげていた。

そして、普通であるなら確実に入れないであろう水の中に足を進めていく。

「ふふ、何も感じない。ほんとは冷たいんだよね。きっと」

当たり前だ。夏でもない、この時間帯の海水など、足に触れただけで全身が震えあがるほど冷たさを感じるだろう。

非現実的な光景を目の当たりにして、本当に彼女が一回死んで、その死んだ体で今活動をしているという奇妙な現実に頭がふらふらしてくる。

少し落ち着こう、と砂に手を付け、腰を据える。

顔を上げると、彼女がひざもとまで海に浸かってこちらを見ていた。

「ねえ。なんだか不思議だね」

「まるでこの波のそっちとこっちで、境界がひかれてるみたい」

「君は生きていて、私は死んでいる」

ひときわ大きな波が、僕の足元までたどり着く。だけど、僕の足が濡れることはなかった。

「どうあがいても、きっとそっちにはいけないんだろうね」

静寂。波の音。風の感触。どちらも冷たいけれど、彼女にはわからない。きっとわからない。

 

死んだ人間がもっと生きたかったと思うのは当然だろう。二十歳前後で死んだめぐるなら、尚更だ。彼女が知りたかったことはもっとあって、行きたかった場所ももっとあっただろう。

ざばざばと足で波をかき分けて彼女がこちら側にやってくる。波のゆく、その先へと。

「まあ、今は特別なわけだけどね」

 

だったら、僕が今の彼女にできることは。

  

 

 

  

 太陽はとっくに僕らの頭上に傾いていた。

日差しが木々の隙間を縫って僕らに降り注ぐ。

次に彼女が向かったのは、山だった。

 

僕が今のめぐるにできること。それはひどく簡単なことだった。

『彼女の行きたい場所についていく』

ただそれだけのことだった。

だけど、こういうことは一人で感じるより誰かと共有したほうが楽しくなるだろう。そして誰も信じないかもしれないけれど。彼女の死を悲しんでいた人たちに、彼女が楽しんでいた思い出を伝えていくことが、彼女のための僕ができることだと思った。

 

病院から逃げるように自然の中に溶け込んでいく彼女は、ちょっとした冒険をしている気分なのかもしれない。

山道を逸れ、人気のない自然の中。立ち入り禁止の看板を無視して、僕らは奥へと進んでいく。誰にも見つからないように。

太陽の光が彼女の顔に当たって、少しだけ肌の色が僕と同じように見えた。くるくると体を回しながら、今しか見れない景色を目に焼き付けているんだろう。

生きていたら決して見れなかったこの緑の隙間から見える空を。死んだからこそ感じることのできた土の柔らかさを。

 

 

 だけど、そんな夢物語、そう長く続くはずがなかった。

おとぎ話なら、このまま二人で楽しくいつまでも過ごせたのかもしれないけれど、現実はうまくいかない。

「あれっ」

彼女が体勢を崩した。そばに寄り添ってみてみると、どうやら足を何かに引っ掛けたみたいだった。

勿論、血は流れない。

「あはは、変なの」

笑う彼女の白い肌に刻まれた切り傷が、血で覆うことなくその中身を見せつける。黒く変色した中の肉が違和感を覚えさせる。一緒に傷がついた靴下に、血がにじんでいかない。

とにかく傷をふさごうとして、靴と靴下を脱がせて足を見ようとすると。

 

指先がすべてもげてしまった素足がでてきた。

 

絶句。

「……」

めぐるも今ようやっと気づいたみたいだ。

考えてみれば明らかだった。最初に海に入ったとき、何も感じなかったわけ。僕だって山を登るのが一苦労なのに、今まで共に歩いてきた彼女が息を切らすようす一つなかったこと。そして、朝方の寒い時間に僕のもとにやってきた意味。

脳が肉体に負担をかけまいとするリミッターが壊れているから、自分の体がどんな状況になっているのか、感覚で認識できないのだ。一度死体となって脆くなった肉体の指先が、何らかの衝撃によってもげようとも、彼女はそれを痛いとすら感じない。

生きているからこそ危機的状況に陥ると働いていた脳の器官が、今の彼女にとっては何の意味もなさないのだ。

 

そして安置室がとても冷えているわけ。

時間がたち、気温が上がってきたことによって、彼女の肉体からは異臭が漂っていた。

それは今まで嗅いだことのない臭いで、人間にとっては本能的に危険だと認識させる臭い。

死臭。そして腐乱臭。

「もう、限界来ちゃったみたいだね」

冷えていたから脆くならずに済んだ彼女の体が、立とうとしただけで足が逆に折れ曲がってもげてしまうくらいになっていた。

腐って行く。まるでさっきまであんなに動いていたことが奇跡だったかのように。

いや。紛れもなく奇跡だったのだろう。けど。

「やっぱり、そううまくはいかないよね…」

 

膝から下がなくなって、思うように動けなくなっためぐるを僕は抱きかかえようとする。

「ダメ」

彼女はそれを拒む。

「こんな状態で戻ったら、君が何言われるかわからないよ。だから、おねがい。」

 私をここに置いていって。

 

「それにね」

「もうあの建物の中は、退屈だよ」

涙を流していることに、彼女は気付いているのだろうか。

血は一滴も流れないくせに、涙は両の瞳からちゃんとながれていて。

それは僕が、僕にとって残酷な決断をさせるには充分なものだった。

 

 

 

 

 

 家に帰った僕のもとに、大勢の人々が訪れていった。

勿論、訪ねてきた内容は上下里めぐるについてだ。

安置室に置かれていたはずの彼女の遺体が突如として消え去り、行方知れずのまま。

誰もが不審な事件を想像したことだろう。

僕はすべての質問を受け流して、彼女の過ごしたあの数時間のことは語らずに終えた。どうせ誰も信じないから話してもよかったかもしれないけれど、このタイミングのせいで、彼女が感動を覚えたあの時間を悪い印象で受け取ってほしくなかったのだ。

結局、遺体は見つからないまま、囃し立てたテレビやネットニュースの中からは、徐々に彼女についての情報が薄れていった。

 

たまに、あの日と同じ道を通り、同じような景色をみる。だけど隣に彼女はいない。

山の中で静かにその肉体を腐らせながら眠りについたであろう彼女は、最期にどんな景色を見て、どんな感想を抱いたのだろうか。

あの日と同じような波が、僕の問いにただ打ち返してくるだけだった。

 

 

 

 

 

 

 

鳥獣病

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 「ごめん」

家に帰ってきた彼の最初の言葉は、ひどく私の胸をえぐり取っていく。

「僕、もうそろそろだめみたいだ」

スーツの袖から、ひらり、鳥の羽が舞い落ちた。

 

 

                             

 

 

 彼が『鳥獣病』に罹ったのは半年前のことだった。

数年前、全世界で同時に発生したこの奇病は、全身が別の生物へと変容していき、最終的に今ある人格が失われ、完全に野生の生物へと姿を変えていくという、人間にとってこれ以上ない恐怖の病気だった。現代の医療技術では治療の目処が立っておらず、患者となったものは、個人差はあるものの、人間以外の生物へと抗うことなく変容していく。

すでにこの鳥獣病にかかって、他の動物になっている人も大勢いる。

その人たちは大半が人間であった記憶を忘れて、野生動物としてその後の生活を過ごしていく。

私が五年前に同棲を始めた彼は、そんな病気にかかってしまったのだった。

 

 

 「鳩ですね」

優しげな、だけどどこか物憂げまなざしを私たちに向けた医者は、彼の行く末をそう告げた。

「彼の腕から鳩のものと同じ性質の羽が検出されました。おそらくは半年から一年の期間で、彼はだんだんと鳩の姿になっていきます」

となりにいる彼の顔を覗き込むと、驚くほどすっきりとした顔だった。

これからの不安とか、恐怖とか、苛立ちとか。そんなものはどこにも感じ取ることができなかった。

対して私は今にも泣きそうな顔をしてしまっていたようで、こちらを向いた彼に「落ち込まないで」と逆に慰められてしまう始末だった。

「患者さんには精神安定剤や睡眠剤を処方する決まりになっています。それでも落ち着かないようでしたら、心のケアをしてくださる方々を紹介します」

寧ろ私に精神安定剤がほしいくらいで。この気持ちをどこに吐露したらいいんだ。行き場のない感情がグルグルと体の中を駆け巡る。

きっとこの空間を外から見ている人がいたとしたら、患者と付き添い人が逆に見えたことだろう。私は慰められたことがなんでか悔しくって、馬鹿、と一言言って彼に泣きついた。

 

 

 

 「———はい、はい。すみません、本当お世話になりました。きっと最後の最後まで忘れないと思います。はい。まぁ完全に変わったら忘れちゃうんでしょうけど」

大学を卒業してからずっと就職していた会社に、彼は電話を繋いで、笑いながら退職の旨を伝えていた。

「この姿だとさすがにもう仕事できないよ」

スーツを脱いだ彼の腕はすでに鳥の羽がびっしりとついていて、パソコンなんてとてもじゃないけど使える形をしていなかった。腕を出したまま外に出ると瞬時に周りでざわめきが起こることだろう。

そんな体になってもまだ、彼は病気になる前と変わらない顔で「今日の晩御飯何?」と気軽に聞いてくるのだ。

ちょっと待っててね、と彼の横を通ってキッチンに向かう。

背中側からみる彼の姿は、頭にわっかでもつければ天使にさえみえるようだった。

 

 

 次の日。

羽の舞い散るベッドの上で朝日に目を覚まされた私は、昨日の出来事が改めて夢ではないと思い知らされて、いつもよりほんの少し重たい朝が始まる。

いつもよりも出てくるのが遅いコーヒーに少しのミルクを混ぜる。黒と白が混ざり合って、渦を描いていく。

きっと彼が人間である境界線と鳩である境界線もこんな風にあやふやになっていってしまって、最後にはどっちが元々の自分だったのかも忘れ去ってしまうのだろう。ぼんやりとそんなことを考えて憂鬱な気持ちでいると、やっと作り終えたパンとスクランブルエッグを手に、彼がつぶやいた。

「今日、散歩にでも行こうか」

その前に部屋の掃除しないとね、と床に落ちた自分の羽を見ながら。

 

 河川敷の散歩道に射す、木漏れ日の心地よい温かさが私たちを包む。

寝ている間に飛び散った羽の掃除をした後、彼が外に着ていける服を見繕うのに小一時間かかって、結局タンスの奥に潜んでいた大学時代に来ていたジャージを着ることになった。

「昔のジャージが入るなんて、いよいよ体の大きさも鳩に近づいていってるんだな」

そういわれると、私よりよっぽど背の高かった彼の頭が少しだけ私の目線から近く見えるような。

「キスをするのにめんどくさくなくなるかもね」なんておどけた調子で言われると、誰が鳩なんかとキスするもんですか、と反発したくなった。

この時期には珍しく快晴の青空に、鳥の群れが羽ばたいていく。

私をそれを見て、なんだか悲しくなってしまった。

「実はね」

空を見上げたまま、彼が言う。

「僕は昔から、鳥になりたかったんだ」

「空の上で気持ちよく風に乗って、人々が生きている街を見下ろす」

「そしていつか見たどこかの街を懐かしいと思いながらまた青い空の中を飛んでいくんだ」

「時には嵐に飲まれたりもするだろう」

「それってとても素敵なことで、充実した世界だと思うんだよ」

いつの日かの、医者に診断結果を宣告されたあの時と同じすっきりとした顔で、どこまでも青い空を瞳に入れたまま。

「だからこうなったのはきっと僕のせいだし、なりたいと思ってしまっていたからこうなったんだと思う」

「でも一つだけ、たった一つだけ」

「きみを巻き込んじゃってごめんね、って思ってるんだ」

 

 彼が病気になってから初めて見せた涙。

それは日差しに反射して、私の眼の中でキラキラと光っていた。

大きな風が吹く。ジャージの隙間から零れ落ちた羽と、彼の流した涙が、私たちの歩いて来た道を反対へと飛んで行った。

 

 

 彼が仕事を辞めてからふた月ほどが経った。仕事のストレスがなくなったのもあってか、病状は緩やかに進行するようになっていたけれど、それでも体の大半は羽毛に埋もれて、鳥の姿へと変容していた。いつからか私の前では顔と手先しか出さなくなっていて、ジャージを脱ぐことはなくなった。それでも変わらず、悲しい顔一つ見せないで朝食を作ってくれる。

「これが僕のできる唯一だから」と言って、絶対にコーヒーを淹れるのは譲らなかった。

ぬるくなったコーヒーにミルクを入れる。黒と白のコントラストが、前よりも格段に遅く混ざり合う。

私も鳥獣病だったら、彼と一緒に風に乗ってどこまでも羽ばたいていけたのだろうか。

そうしたら、あの時に彼が涙を流すことなんてなかったのだろうか。

私も鳥になりたいと願っていれば———。

ごちゃごちゃの思考が混ざり合っていって、しまいにはなんだかわからなくなっていってしまう。

私はコーヒーと一緒にそれを飲みこんで、無かったことにする。カフェインの匂いが頭の中に充満した。

 

と、同時に。

強烈な眠気が私を襲ってくる。

「もう行かなきゃ。本能なのかわかんないけど、もう居ても立っても居られないんだ。記憶ももうほとんどなくなってる。こんな形でごめんね」

さようなら。

おぼろげになっていく意識の中で、窓から飛び立つ彼の姿が、人の形をした羽の中から空へと向かっていく一羽の彼の姿が、視界から離れなかった。

 

  再び目が覚めた時、家の中には脱ぎ捨てられたジャージと、飲みかけの冷え切ったコーヒー。そして床に散らばる無数の羽だけが残されていた。

もうここに彼のいた面影はそれしかなくて、どうしようもない感情が波になって襲い掛かってくる。

だけど、羽の中に埋もれて残されていたものを見た瞬間、それは全部涙へと変わっていった。

それは手紙。

手紙の中には今まで言ってこなかったことがたくさん書かれていた。

震える手でコーヒーを淹れて、さよならと一方的に告げて、自分だけ大きな空へ飛んで行った彼が、本当は私より不安に思っていたこと。

私が彼を見捨てるかもしれないということ。

この奇病を、受け入れてくれないかもしれないという恐怖。

それらを全部押し隠して、病気になっても変わらずにいようとしたこと。

とんだ臆病者だ。

五年以上もずっと一緒にいて、今更そんな風に思ってただなんて。

怖くないはずがなかった。不安じゃないはずがなかった。いくら鳥になりたいと人が願っていても、それは完全に鳥になりたいってわけじゃないことくらいわかっていたはずなのに。

大粒の涙がよろよろに書かれた文字の上に落ちていく。

 

せめてちゃんと、お別れだけは言いたかった。 

 

 

 

 

ばさばさっと、窓の方から音がする。夕日に目を細めながらそちらを向くと。

 ———一羽の鳩が、そこに佇んでいた。

そういえば聞いたことがある。鳩の習性の一つに、『帰巣本能』があるということを。

朝、突然出かけて行って、夕方になって帰ってくるまで、ずっと飛び続けていたのだろうか。もっともっと遠くへ行けたはずなのに、それでもここに戻ってきた意味。

それはきっと、ここで過ごした時間を、記憶の奥底で忘れないでいたからだろう。

私が別れの言葉を告げる必要はなくて。

彼が一方的に去っていったのは、自分のすべてが変化してしまう前の、たった一つの冴えないやり方だったのだろう。

彼が彼を覚えていなくても、私が彼を覚えている。

 

昔は両手なんかじゃ収まらなかった彼の体が、今ではすっぽりとてのひらに入ってしまう。

 

鳩になっても体温は変わらないままなんだな、と、てのひらの中で感じた。

 

 

 

 

 

 

 

先輩の蛹

  

 ある日部室を訪れると、先輩が蛹になっていた。

声をかけても、つついてみても、返事や反応は来ない。僕はただ固くなった先輩の表皮に触れることしかできなかった。出来ることなら先輩が羽化する瞬間をこの目で見てみたいものだけど、そううまくタイミングが合うかな、と胸中で不安になっていた。

 

 先輩が蛹になるのは、前に本人から伝えられていたので動揺はしなかった。部室の隅で自分の居心地を確かめるよう、なんども椅子の場所を調整する先輩を見かけた時、声をかけたのだ。それはいったいどういう意図のものなんですか、と。

すると先輩は、もうそろそろ蛹になる時期だから、自分のしっくりくる場所を作っているんだよ、と言ってきた。

僕は女性のそういうものは自宅でやってしまうものだと思っていたため、こんな埃っぽい、僕と先輩しか寄り付かないような部室の隅で蛹になるのは、先輩には不釣り合いなんじゃないかと提言した。

何せ先輩は僕の知る限り、一番端麗な顔立ちをしていて、透き通るような肌を持ち、そして何より腰までストンと伸びた髪の毛からいい匂いのする人だったからだ。この人がその気になれば彼氏なんていくらでも作れるだろうに、そういった関係の人はいないらしい。

そんな先輩がこんなところで蛹になってしまうなんて、いくらなんでも不釣り合いだ。同じ部室で過ごしてきた僕だからこそ、そこは十分に理解しているつもりだ。

だけど先輩は、それでもここがいいんだ、と言って、しきりに椅子を動かす。だって、こんな恥ずかしいところ、誰にでも見せられるわけないじゃない、と照れ臭そうに笑って。

 

 僕は先輩が蛹になったことを、学校の先生に相談しに行った。すると学校の先生は、いつ羽化するかわからないから、部室の窓だけは開けておきなさいとだけ言って、あとは何も教えてくれなかった。男の先生に相談しに行ったのが悪かったのだろうかと思い、女の先生にも同じことを相談したが、やっぱり返答は同じだった。

仕方がないのでとりあえず部室の窓を開けておく。

夏の日照りが直に入ってきて、先輩に日光が当たりまくっているので、暑くないかな、と少し不安になった。

開けた窓から生ぬるい風が部屋に入ってきた。

 

 部室の窓を開きっぱなしにするのは、まだ部室を使っている僕からすると地獄のようなものだった。エアコンをつけても部屋は涼しくならないし、扇風機の風でさえ外の風と混じって生ぬるくなってしまう。

毎日掃除をしても次の日には葉っぱや虫が入ってきているし、今までのように雑に使っていくわけにはいかなくなってしまった。

せめて先輩が羽化するまでは、その気持ちが今の僕がこの劣悪な環境の部室に訪れている理由だった。

 

 先輩が蛹になってから、それについて調べるようになった。

大体2週間弱で羽化するようになるが、気温に左右されやすいのでなるべく部屋を冷やさないようにするのがいいらしい。窓を開けておくのはそういった理由も含まれていたんだろう。

羽化の前には、羽の柄が透けて見えるようだ。わかりやすい目印なので、これなら僕も先輩が羽化する瞬間を目にする頃ができるかもしれない。

羽化に失敗してしまうこともあるみたいだけれど、この部分は僕にはどうしようもないので、そうならないように祈るしかなかった。

先輩が蛹になってから、そろそろ1週間が経とうとしていた。

 

 先輩が蛹になって10日。その日もいつものように授業が終わってから部室に向かっていると、何やら部室で物音がしているのが扉越しからでも聞こえてきた。とうとう先輩が羽化したのかもしれない、と期待と不安を胸に扉を開けてみると、そこには見たことのない男が、先輩をわきに抱えて窓に足をかけ、すぐさまここから飛び出していこうとしている姿があった。

 

僕が来てしまったことが予想外だったのか、その男は先輩を放り出し、自分の身一つで一目散に逃げだしていった。その時、先輩が窓から外に転げ落ちてしまったので、僕は急いで窓から飛び降りて先輩の蛹を確認した。

少しだけ表皮に傷はついていたけれど、中身があふれてしまうほど深い傷ではなかったようで、僕は大きな息を一つして、先輩を大事に、丁寧に部室へと運んでいき、元々いた場所に、同じように先輩を座らせた。

多くの女性が自宅で蛹になるのは、どうやらこういった事件が起こらないようにするためのようだった。蛹を盗みに来る輩を寄せ付けないようにして、安全に羽化できるように、親に逐一経過観察をしてもらうのが一般的な扱いらしい。

そんなリスクを負ってまで、なぜこの部室で羽化することを選んだのか。僕は先輩にそんな疑問をぶつけてみたが、先輩はすでに動かないので、喋ることはなかった。

 

 先輩が蛹になって13日が経つ。蛹が黒色に変色してきた。もしかしたらこの間の男に蛹の中に何か混ぜられたのではないかと不安になって、申し訳なさもありながら先輩の蛹をあらかた観察してみたけれど、混ぜ入れたような痕跡はどこにもなくて、ただただ僕は不安に駆られることになった。

もし、羽化が失敗していたら。もし先輩が、きれいな姿ででてくることが叶わなかったとしたら。そんな最悪の状況ばかりが頭に浮かんできて、僕は先輩の蛹を面と向かってみることができなくなってしまっていた。

 

 14日目。なんとなく部室に足を運ぶのが重たくて、いつもよりだいぶ遅い時間に部室の扉を開けていた。どうやらまだ先輩は羽化していないようで、黒色の蛹が部屋の隅でまだ動かずにじっとその瞬間を待ち構えていた。日が赤くなって地平線の下へと沈んでいく。もう出てきてもいいはずなのに、もう喋ることもできるはずなのに、先輩はまだ蛹の中にいる。

僕がもっと部室の環境に気を遣っていたならこんな不安を抱くことはなかっただろうか。蛹になると聞いたその日に、それについて調べていればきちんとした扱いができていただろうか。無理やりにでも家まで運んで、安全な場所で過ごさせてあげるべきだっただろうか。

そんな最悪の状況に対しての言い訳を妄想していたら、ベリ、と大きな音が聞こえてきた。ハッと顔をそちらに向けると、蛹の中からなにやら黒い塊が出てきはじめている。羽化だ。羽化が始まったんだ。

あまりにも唐突に来たそれは、ゆっくりと時間をかけて形を表していく。徐々に黒いそれが羽であることがわかり、羽が開き始めると、その奥から2週間ぶりに先輩の顔が現れた。

去年の夏休みよりも短い期間であるはずの2週間なのに、その時よりも久しい感覚が体の中に溢れてくる。

 

羽化はゆっくりと行われ、夕日が傾き始めたころに始まったそれは、終わるころには月が僕らを照らしていた。その間僕はじっと先輩を見続けていたし、先輩は目を閉じたままだった。

 

先輩の目が開き、羽がパタパタと動く。

そして僕を一瞥したかと思うと、その大きく黒い羽を広げて、窓から飛び立っていった。月明かりに照らされた羽がキラキラと鱗粉を散らばして、まるでおとぎ話の中に出てくる妖精みたいだった。光に反射して黒い羽が青色へと変化していく。背中に蝶の羽を背負った先輩は、僕が見てきた先輩の中で一番きれいな姿だった。

 

 羽化が成功していてよかった。慣れない僕が世話をしていて、途中でトラブルがあったから、蛹が黒くなった時は本当に失敗してしまったんじゃないかと心が押しつぶされる思いだったけれど、ああやって空を飛んでいく先輩の姿を見れて本当によかった。

 

先輩が月の中に消えていく。残った僕と、抜け殻の蛹が月明かりに照らされていた。

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空と星

 

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「くよくよしたり、悩んだりした時は空を見るんだよ。きっと君の心を晴らしてくれる」
片田舎の小さな高校で天文学部に入っていた私は、先輩からその言葉を言われた。


 その高校では何かの部活に入ってなきゃ周りからの印象がよくないとのことで、とにかく何かしらの部員になるのが当たり前だった。
例にもれなく私も部活を探していた。そして天文学部に出会ったのだ。
星が好きとか天文学に興味があるとか、そういう大した理由は持ってなくて、たまたま最初に見に行った部活動がこれで、面倒くさがりな私はこの部活でいいやと、適当に決めただけだった。
ただ、適当に決めたわりに3年間続けることができたことは、案外誉められても良いのかもしれないと今になって思う。
とはいっても誉められるべきは私じゃなくて、私に部活動のやる気を出させた先輩であることは明白なのだけれど。


 先輩は不思議な人だった。本当に学校に通っているのかすら怪しいくらい、いつも部室にいた。私が授業をサボタージュして部室でこっそりお昼ご飯でも食べようかと立ち寄ったときにさえ、彼は部室の一番奥、窓から空を眺めることのできる場所に置かれている、ふかふかの椅子に座っていた。
そしていつもこういうのだ。
「やぁ、今日は空を見ていくかい?」
と。


 今になって思えば、私は部活動でありながら部活動でないような放課後の雰囲気が、とても心地よかったのだろう。
特別目標を掲げることもなく、ただ気の向いたときに空を見上げるだけという活動内容は、その実、部活動に入っていなくたって誰でもやっているようなことである。天文学部と名乗るのすら、他の学校の天文学部と名乗っている人たちにはおこがましいのではないかと感じるくらいだ。
でも私は天文学部としてそこにいて、くだらない星座の話なんかを一方的に聞かされながら、夜になるまで空を見上げていたのだった。


 「天文学部が夜にしか活動できないというのは大きな間違いだよ。学校が終わって直ぐ様空を見ていれば、それは部活動をしていると言えるんだ」
入部初日、私がこの部活は夜に天体観測をするしか活動内容のない部活だと思っていた私に、先輩はそういった。
私はこの時、活動が限定的だからこそ天文学部に入ったというのに、それを真っ先に否定されてしまって困ったものだから、今からでも他の部活を探そうかと考えていたような気がする。
ただ、なんでかわからないけれど。この部活に居続けてしまったのだ。

 

 そんな唐突な始まりかたをした私の部活動は、一年で節目を迎えた。
そう、先輩の卒業である。

そのときになるまで気にしていなかったのだが、先輩は私の二つ上の学年だったのだ。
私はどうして卒業することをいってくれなかったのか、部室に言って問い詰めた。
すると彼は、「言ってなかったっけ」と白々しくとぼけた顔でいうのだった。
ちゃんと学校に通っていたのかとか、言うのを忘れるなんてあり得ないとか、これからこの部活をどうすれば良いのかとか、どこの大学に行くのかとか、これからまた遊びにくるのかとか、色々聞きたいことはあった。
だけど、先程の言葉を聞いて、思わず呆れてしまった私は。

いつもと変わらず、二人で窓辺から空を眺めることにしてしまったのだった。
そしてその時、こう言われたのだ。


「くよくよしたり、悩んだりした時は空を見るんだよ。きっと君の心を晴らしてくれる」
と。
今の悩みのタネは全て隣で空を見上げているある人物に収束するわけで、この人物に全てを問いただせば解決するのだが、それをすることはなんでか無粋な気がして。
赤色から藍色に移ろいゆく空の色をじっと眺めながら、私はこの景色を忘れないようしっかりと目に焼き付けた。


 結局私は、その後も部活動を継続することを選んだ。
ただ、それからの2年はある意味、蛇足だったかもしれない。
新入部員なんてものは入ってこなかったし、もしかしたら先生たちですら天文学部が活動を続けていることを知らなかったのかもしれない。部活に入っていないように見えた私を、あまりよく見ていなかったかもしれない。
部室に行っても誰もいるわけではないけれど、私は色々と教えてくれた、先輩の痕跡を消したくなかったのだろう。
そして夜になるまで一人で空を眺めながら、先輩の言っていたあの一言を思い出し、今の自分には靄がかかっているのかどうか、確認していた。

空を眺めると、星がキラキラと地球を輝かせるライトみたいに映って見えた。

 

 そんな3年間を過ごして、私は今、都会で働く人間になっている。
社会はひどくままならなくて、理不尽な言葉や行動が飛び交う戦場のような職場を、針の糸を通すような繊細さで過ごしていかなければならない。
今でさえ、自宅の机に溢れる書類と格闘している。
そんな生活に辟易していると、ふと先輩の言葉を思い出した。
単純な脳みそと思われるかもしれないが、私にとってはそれが一番の方法な気がして。
ベランダに出て、あの日々のように空を見上げる。


けれど、あの日々のような星の輝きは私の目に映ることはなかった。

 
 私の目線のその下。そこには、眠ることのない街が存在していた。
私が過ごすことを選んだ街。
あの田舎を飛び出して、キラキラと光るネオンサイトの明かりに吸われていった。
まるで、飛んで火に入る夏の虫のように。
失ったものは大きいのかもしれない。あの光景はもう、私のなかにしか存在しない。再び見ることはできないのだ。
そう思うと、いつもは気にならない町の明かりが目に刺激を与えてきて、一筋の涙をこぼした。

先輩の言葉が、ひどく胸に残っていた。