夜の踊り場

自作小説を置いていきます。

鳥獣病

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 「ごめん」

家に帰ってきた彼の最初の言葉は、ひどく私の胸をえぐり取っていく。

「僕、もうそろそろだめみたいだ」

スーツの袖から、ひらり、鳥の羽が舞い落ちた。

 

 

                             

 

 

 彼が『鳥獣病』に罹ったのは半年前のことだった。

数年前、全世界で同時に発生したこの奇病は、全身が別の生物へと変容していき、最終的に今ある人格が失われ、完全に野生の生物へと姿を変えていくという、人間にとってこれ以上ない恐怖の病気だった。現代の医療技術では治療の目処が立っておらず、患者となったものは、個人差はあるものの、人間以外の生物へと抗うことなく変容していく。

すでにこの鳥獣病にかかって、他の動物になっている人も大勢いる。

その人たちは大半が人間であった記憶を忘れて、野生動物としてその後の生活を過ごしていく。

私が五年前に同棲を始めた彼は、そんな病気にかかってしまったのだった。

 

 

 「鳩ですね」

優しげな、だけどどこか物憂げまなざしを私たちに向けた医者は、彼の行く末をそう告げた。

「彼の腕から鳩のものと同じ性質の羽が検出されました。おそらくは半年から一年の期間で、彼はだんだんと鳩の姿になっていきます」

となりにいる彼の顔を覗き込むと、驚くほどすっきりとした顔だった。

これからの不安とか、恐怖とか、苛立ちとか。そんなものはどこにも感じ取ることができなかった。

対して私は今にも泣きそうな顔をしてしまっていたようで、こちらを向いた彼に「落ち込まないで」と逆に慰められてしまう始末だった。

「患者さんには精神安定剤や睡眠剤を処方する決まりになっています。それでも落ち着かないようでしたら、心のケアをしてくださる方々を紹介します」

寧ろ私に精神安定剤がほしいくらいで。この気持ちをどこに吐露したらいいんだ。行き場のない感情がグルグルと体の中を駆け巡る。

きっとこの空間を外から見ている人がいたとしたら、患者と付き添い人が逆に見えたことだろう。私は慰められたことがなんでか悔しくって、馬鹿、と一言言って彼に泣きついた。

 

 

 

 「———はい、はい。すみません、本当お世話になりました。きっと最後の最後まで忘れないと思います。はい。まぁ完全に変わったら忘れちゃうんでしょうけど」

大学を卒業してからずっと就職していた会社に、彼は電話を繋いで、笑いながら退職の旨を伝えていた。

「この姿だとさすがにもう仕事できないよ」

スーツを脱いだ彼の腕はすでに鳥の羽がびっしりとついていて、パソコンなんてとてもじゃないけど使える形をしていなかった。腕を出したまま外に出ると瞬時に周りでざわめきが起こることだろう。

そんな体になってもまだ、彼は病気になる前と変わらない顔で「今日の晩御飯何?」と気軽に聞いてくるのだ。

ちょっと待っててね、と彼の横を通ってキッチンに向かう。

背中側からみる彼の姿は、頭にわっかでもつければ天使にさえみえるようだった。

 

 

 次の日。

羽の舞い散るベッドの上で朝日に目を覚まされた私は、昨日の出来事が改めて夢ではないと思い知らされて、いつもよりほんの少し重たい朝が始まる。

いつもよりも出てくるのが遅いコーヒーに少しのミルクを混ぜる。黒と白が混ざり合って、渦を描いていく。

きっと彼が人間である境界線と鳩である境界線もこんな風にあやふやになっていってしまって、最後にはどっちが元々の自分だったのかも忘れ去ってしまうのだろう。ぼんやりとそんなことを考えて憂鬱な気持ちでいると、やっと作り終えたパンとスクランブルエッグを手に、彼がつぶやいた。

「今日、散歩にでも行こうか」

その前に部屋の掃除しないとね、と床に落ちた自分の羽を見ながら。

 

 河川敷の散歩道に射す、木漏れ日の心地よい温かさが私たちを包む。

寝ている間に飛び散った羽の掃除をした後、彼が外に着ていける服を見繕うのに小一時間かかって、結局タンスの奥に潜んでいた大学時代に来ていたジャージを着ることになった。

「昔のジャージが入るなんて、いよいよ体の大きさも鳩に近づいていってるんだな」

そういわれると、私よりよっぽど背の高かった彼の頭が少しだけ私の目線から近く見えるような。

「キスをするのにめんどくさくなくなるかもね」なんておどけた調子で言われると、誰が鳩なんかとキスするもんですか、と反発したくなった。

この時期には珍しく快晴の青空に、鳥の群れが羽ばたいていく。

私をそれを見て、なんだか悲しくなってしまった。

「実はね」

空を見上げたまま、彼が言う。

「僕は昔から、鳥になりたかったんだ」

「空の上で気持ちよく風に乗って、人々が生きている街を見下ろす」

「そしていつか見たどこかの街を懐かしいと思いながらまた青い空の中を飛んでいくんだ」

「時には嵐に飲まれたりもするだろう」

「それってとても素敵なことで、充実した世界だと思うんだよ」

いつの日かの、医者に診断結果を宣告されたあの時と同じすっきりとした顔で、どこまでも青い空を瞳に入れたまま。

「だからこうなったのはきっと僕のせいだし、なりたいと思ってしまっていたからこうなったんだと思う」

「でも一つだけ、たった一つだけ」

「きみを巻き込んじゃってごめんね、って思ってるんだ」

 

 彼が病気になってから初めて見せた涙。

それは日差しに反射して、私の眼の中でキラキラと光っていた。

大きな風が吹く。ジャージの隙間から零れ落ちた羽と、彼の流した涙が、私たちの歩いて来た道を反対へと飛んで行った。

 

 

 彼が仕事を辞めてからふた月ほどが経った。仕事のストレスがなくなったのもあってか、病状は緩やかに進行するようになっていたけれど、それでも体の大半は羽毛に埋もれて、鳥の姿へと変容していた。いつからか私の前では顔と手先しか出さなくなっていて、ジャージを脱ぐことはなくなった。それでも変わらず、悲しい顔一つ見せないで朝食を作ってくれる。

「これが僕のできる唯一だから」と言って、絶対にコーヒーを淹れるのは譲らなかった。

ぬるくなったコーヒーにミルクを入れる。黒と白のコントラストが、前よりも格段に遅く混ざり合う。

私も鳥獣病だったら、彼と一緒に風に乗ってどこまでも羽ばたいていけたのだろうか。

そうしたら、あの時に彼が涙を流すことなんてなかったのだろうか。

私も鳥になりたいと願っていれば———。

ごちゃごちゃの思考が混ざり合っていって、しまいにはなんだかわからなくなっていってしまう。

私はコーヒーと一緒にそれを飲みこんで、無かったことにする。カフェインの匂いが頭の中に充満した。

 

と、同時に。

強烈な眠気が私を襲ってくる。

「もう行かなきゃ。本能なのかわかんないけど、もう居ても立っても居られないんだ。記憶ももうほとんどなくなってる。こんな形でごめんね」

さようなら。

おぼろげになっていく意識の中で、窓から飛び立つ彼の姿が、人の形をした羽の中から空へと向かっていく一羽の彼の姿が、視界から離れなかった。

 

  再び目が覚めた時、家の中には脱ぎ捨てられたジャージと、飲みかけの冷え切ったコーヒー。そして床に散らばる無数の羽だけが残されていた。

もうここに彼のいた面影はそれしかなくて、どうしようもない感情が波になって襲い掛かってくる。

だけど、羽の中に埋もれて残されていたものを見た瞬間、それは全部涙へと変わっていった。

それは手紙。

手紙の中には今まで言ってこなかったことがたくさん書かれていた。

震える手でコーヒーを淹れて、さよならと一方的に告げて、自分だけ大きな空へ飛んで行った彼が、本当は私より不安に思っていたこと。

私が彼を見捨てるかもしれないということ。

この奇病を、受け入れてくれないかもしれないという恐怖。

それらを全部押し隠して、病気になっても変わらずにいようとしたこと。

とんだ臆病者だ。

五年以上もずっと一緒にいて、今更そんな風に思ってただなんて。

怖くないはずがなかった。不安じゃないはずがなかった。いくら鳥になりたいと人が願っていても、それは完全に鳥になりたいってわけじゃないことくらいわかっていたはずなのに。

大粒の涙がよろよろに書かれた文字の上に落ちていく。

 

せめてちゃんと、お別れだけは言いたかった。 

 

 

 

 

ばさばさっと、窓の方から音がする。夕日に目を細めながらそちらを向くと。

 ———一羽の鳩が、そこに佇んでいた。

そういえば聞いたことがある。鳩の習性の一つに、『帰巣本能』があるということを。

朝、突然出かけて行って、夕方になって帰ってくるまで、ずっと飛び続けていたのだろうか。もっともっと遠くへ行けたはずなのに、それでもここに戻ってきた意味。

それはきっと、ここで過ごした時間を、記憶の奥底で忘れないでいたからだろう。

私が別れの言葉を告げる必要はなくて。

彼が一方的に去っていったのは、自分のすべてが変化してしまう前の、たった一つの冴えないやり方だったのだろう。

彼が彼を覚えていなくても、私が彼を覚えている。

 

昔は両手なんかじゃ収まらなかった彼の体が、今ではすっぽりとてのひらに入ってしまう。

 

鳩になっても体温は変わらないままなんだな、と、てのひらの中で感じた。