先輩の蛹
ある日部室を訪れると、先輩が蛹になっていた。
声をかけても、つついてみても、返事や反応は来ない。僕はただ固くなった先輩の表皮に触れることしかできなかった。出来ることなら先輩が羽化する瞬間をこの目で見てみたいものだけど、そううまくタイミングが合うかな、と胸中で不安になっていた。
先輩が蛹になるのは、前に本人から伝えられていたので動揺はしなかった。部室の隅で自分の居心地を確かめるよう、なんども椅子の場所を調整する先輩を見かけた時、声をかけたのだ。それはいったいどういう意図のものなんですか、と。
すると先輩は、もうそろそろ蛹になる時期だから、自分のしっくりくる場所を作っているんだよ、と言ってきた。
僕は女性のそういうものは自宅でやってしまうものだと思っていたため、こんな埃っぽい、僕と先輩しか寄り付かないような部室の隅で蛹になるのは、先輩には不釣り合いなんじゃないかと提言した。
何せ先輩は僕の知る限り、一番端麗な顔立ちをしていて、透き通るような肌を持ち、そして何より腰までストンと伸びた髪の毛からいい匂いのする人だったからだ。この人がその気になれば彼氏なんていくらでも作れるだろうに、そういった関係の人はいないらしい。
そんな先輩がこんなところで蛹になってしまうなんて、いくらなんでも不釣り合いだ。同じ部室で過ごしてきた僕だからこそ、そこは十分に理解しているつもりだ。
だけど先輩は、それでもここがいいんだ、と言って、しきりに椅子を動かす。だって、こんな恥ずかしいところ、誰にでも見せられるわけないじゃない、と照れ臭そうに笑って。
僕は先輩が蛹になったことを、学校の先生に相談しに行った。すると学校の先生は、いつ羽化するかわからないから、部室の窓だけは開けておきなさいとだけ言って、あとは何も教えてくれなかった。男の先生に相談しに行ったのが悪かったのだろうかと思い、女の先生にも同じことを相談したが、やっぱり返答は同じだった。
仕方がないのでとりあえず部室の窓を開けておく。
夏の日照りが直に入ってきて、先輩に日光が当たりまくっているので、暑くないかな、と少し不安になった。
開けた窓から生ぬるい風が部屋に入ってきた。
部室の窓を開きっぱなしにするのは、まだ部室を使っている僕からすると地獄のようなものだった。エアコンをつけても部屋は涼しくならないし、扇風機の風でさえ外の風と混じって生ぬるくなってしまう。
毎日掃除をしても次の日には葉っぱや虫が入ってきているし、今までのように雑に使っていくわけにはいかなくなってしまった。
せめて先輩が羽化するまでは、その気持ちが今の僕がこの劣悪な環境の部室に訪れている理由だった。
先輩が蛹になってから、それについて調べるようになった。
大体2週間弱で羽化するようになるが、気温に左右されやすいのでなるべく部屋を冷やさないようにするのがいいらしい。窓を開けておくのはそういった理由も含まれていたんだろう。
羽化の前には、羽の柄が透けて見えるようだ。わかりやすい目印なので、これなら僕も先輩が羽化する瞬間を目にする頃ができるかもしれない。
羽化に失敗してしまうこともあるみたいだけれど、この部分は僕にはどうしようもないので、そうならないように祈るしかなかった。
先輩が蛹になってから、そろそろ1週間が経とうとしていた。
先輩が蛹になって10日。その日もいつものように授業が終わってから部室に向かっていると、何やら部室で物音がしているのが扉越しからでも聞こえてきた。とうとう先輩が羽化したのかもしれない、と期待と不安を胸に扉を開けてみると、そこには見たことのない男が、先輩をわきに抱えて窓に足をかけ、すぐさまここから飛び出していこうとしている姿があった。
僕が来てしまったことが予想外だったのか、その男は先輩を放り出し、自分の身一つで一目散に逃げだしていった。その時、先輩が窓から外に転げ落ちてしまったので、僕は急いで窓から飛び降りて先輩の蛹を確認した。
少しだけ表皮に傷はついていたけれど、中身があふれてしまうほど深い傷ではなかったようで、僕は大きな息を一つして、先輩を大事に、丁寧に部室へと運んでいき、元々いた場所に、同じように先輩を座らせた。
多くの女性が自宅で蛹になるのは、どうやらこういった事件が起こらないようにするためのようだった。蛹を盗みに来る輩を寄せ付けないようにして、安全に羽化できるように、親に逐一経過観察をしてもらうのが一般的な扱いらしい。
そんなリスクを負ってまで、なぜこの部室で羽化することを選んだのか。僕は先輩にそんな疑問をぶつけてみたが、先輩はすでに動かないので、喋ることはなかった。
先輩が蛹になって13日が経つ。蛹が黒色に変色してきた。もしかしたらこの間の男に蛹の中に何か混ぜられたのではないかと不安になって、申し訳なさもありながら先輩の蛹をあらかた観察してみたけれど、混ぜ入れたような痕跡はどこにもなくて、ただただ僕は不安に駆られることになった。
もし、羽化が失敗していたら。もし先輩が、きれいな姿ででてくることが叶わなかったとしたら。そんな最悪の状況ばかりが頭に浮かんできて、僕は先輩の蛹を面と向かってみることができなくなってしまっていた。
14日目。なんとなく部室に足を運ぶのが重たくて、いつもよりだいぶ遅い時間に部室の扉を開けていた。どうやらまだ先輩は羽化していないようで、黒色の蛹が部屋の隅でまだ動かずにじっとその瞬間を待ち構えていた。日が赤くなって地平線の下へと沈んでいく。もう出てきてもいいはずなのに、もう喋ることもできるはずなのに、先輩はまだ蛹の中にいる。
僕がもっと部室の環境に気を遣っていたならこんな不安を抱くことはなかっただろうか。蛹になると聞いたその日に、それについて調べていればきちんとした扱いができていただろうか。無理やりにでも家まで運んで、安全な場所で過ごさせてあげるべきだっただろうか。
そんな最悪の状況に対しての言い訳を妄想していたら、ベリ、と大きな音が聞こえてきた。ハッと顔をそちらに向けると、蛹の中からなにやら黒い塊が出てきはじめている。羽化だ。羽化が始まったんだ。
あまりにも唐突に来たそれは、ゆっくりと時間をかけて形を表していく。徐々に黒いそれが羽であることがわかり、羽が開き始めると、その奥から2週間ぶりに先輩の顔が現れた。
去年の夏休みよりも短い期間であるはずの2週間なのに、その時よりも久しい感覚が体の中に溢れてくる。
羽化はゆっくりと行われ、夕日が傾き始めたころに始まったそれは、終わるころには月が僕らを照らしていた。その間僕はじっと先輩を見続けていたし、先輩は目を閉じたままだった。
先輩の目が開き、羽がパタパタと動く。
そして僕を一瞥したかと思うと、その大きく黒い羽を広げて、窓から飛び立っていった。月明かりに照らされた羽がキラキラと鱗粉を散らばして、まるでおとぎ話の中に出てくる妖精みたいだった。光に反射して黒い羽が青色へと変化していく。背中に蝶の羽を背負った先輩は、僕が見てきた先輩の中で一番きれいな姿だった。
羽化が成功していてよかった。慣れない僕が世話をしていて、途中でトラブルがあったから、蛹が黒くなった時は本当に失敗してしまったんじゃないかと心が押しつぶされる思いだったけれど、ああやって空を飛んでいく先輩の姿を見れて本当によかった。
先輩が月の中に消えていく。残った僕と、抜け殻の蛹が月明かりに照らされていた。