夜の踊り場

自作小説を置いていきます。

死体逃避行

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 「やあ」

 「来ちゃった」

 

 数日前の僕なら彼女に自宅の玄関先でそんな言葉を言われたらドキドキが止まらないことだっただろう。冷蔵庫に飲み物なんて大して入ってないし、ろくな暇つぶしの道具もないからしどろもどろしていたに違いない。「ちょっとまっててくれる?」と言って彼女を置き去りにして、床に転がった空き缶やスナック菓子の空き袋を全部一つのごみ袋に緊急避難させていたはずだ。

ただ。

今回ばかりは、そうはならなかった。

なぜなら彼女は、本来ならば病院の地下、薄暗く冷えたあの部屋の中で、静かに眠っているはずだからだ。

 

彼女———上下里めぐるは、ついこないだその命を亡くしたのだから。

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 それはどうしようもないものだった。

めぐるは昔から病気に弱く、入退院を繰り返しては徐々に健康な生活を減らしていく日々。

「成人を迎えられるほど、きっと長くは持たないと思います」 小さいころ、医者から言われていたらしいその絶望にも近い余命宣告は、その通り現実となった。

 

僕とめぐるは、僕が高校のころに大けがをして、しばらく入院生活を余儀なくされていた時に初めて面識を持った。

何をすることもなく、暇な病院生活を過ごしていた僕は、中庭のベンチに座ってぼーっとスマホを見るのが日課になっていて。そんな時に彼女に声をかけられたのだ。

「こんにちは。私、かみさがりめぐるっていうんだけど。もしよければ話し相手になってくれませんか?」と。

長らく入院していることもあってか、あまり病院以外の場所のことがわからないようで、僕みたいに入院してきた人の話を聞くことが日々の楽しみになっていたんだそう。いつもは年寄りの話が多いから、こうやって同い年くらいの人が来たときは特に興味を持ってしまうとも言っていた。

「不謹慎だけどね」と、付け加えて。

高校生が同年代の女の子を意識しないわけがなくて、しかも顔も整っていためぐるに、僕はすぐに気を許した。そして自分の身の上話とか、学校生活のことをたくさん話した。

正直、平平凡凡な生活を送っていた僕の話なんてそんなに面白いものなんだろうか、と思っていたけれど、彼女はどんな話も興味のある目で、まるで小さな子供のような純真なまなざしで僕の話を聞いてくれていた。

 

三ヵ月の間にはもうすっかり仲良くなっていて、僕は退院してからも彼女の病室を訪れるようになっていた。

「今日はどうしたの?」

そうやって楽しげに笑う彼女の顔を見ることがいつのまにか僕の楽しみにもなっていた。

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 「なんでかわかってたら苦労はしないよ」

午前五時。「部屋にいるより外に出たい」と言って、朝靄がかかった町のなかを僕と歩き、青白くなった腕に目線を送りながら、めぐるは笑みを浮かべる。

確かにその顔は生前のそれと寸分たがわない。毎日のように見ていたあの笑顔と同じだった。違うのは顔色だけ。

死んだ人間の生命器官が再び動き始めるなんてどんな超常現象なのか僕のあずかり知るところではないけれど、安置室で冷え切った彼女の体は見事なまでに血の気がなかった。

「でもこうやって足動かして歩いちゃってるわけですし」

まるで今の自分の状態など気にも留めてないようなからからとした声は、何日か前に聞いた衰弱した声ではなくて、僕が初めて彼女と話した時と同じだった。

「それにね」

「こうやって外に出たいって、ずっとおもってたから」

歩調を変えることなくめぐるは先へと進み、くるんと僕の方へと向き直る。

「もしかしたら誰かが願いを叶えてくれたのかもね」

彼女の着ている服が風になびく。

彼女の歩く道の先に、季節外れの寒そうな海が広がっていた。

 

 

 さざ波が僕らを迎え入れる。

生前に海をその目で見たことのない彼女は、その広さと圧倒的な存在に感嘆の声ばかりをあげていた。

そして、普通であるなら確実に入れないであろう水の中に足を進めていく。

「ふふ、何も感じない。ほんとは冷たいんだよね。きっと」

当たり前だ。夏でもない、この時間帯の海水など、足に触れただけで全身が震えあがるほど冷たさを感じるだろう。

非現実的な光景を目の当たりにして、本当に彼女が一回死んで、その死んだ体で今活動をしているという奇妙な現実に頭がふらふらしてくる。

少し落ち着こう、と砂に手を付け、腰を据える。

顔を上げると、彼女がひざもとまで海に浸かってこちらを見ていた。

「ねえ。なんだか不思議だね」

「まるでこの波のそっちとこっちで、境界がひかれてるみたい」

「君は生きていて、私は死んでいる」

ひときわ大きな波が、僕の足元までたどり着く。だけど、僕の足が濡れることはなかった。

「どうあがいても、きっとそっちにはいけないんだろうね」

静寂。波の音。風の感触。どちらも冷たいけれど、彼女にはわからない。きっとわからない。

 

死んだ人間がもっと生きたかったと思うのは当然だろう。二十歳前後で死んだめぐるなら、尚更だ。彼女が知りたかったことはもっとあって、行きたかった場所ももっとあっただろう。

ざばざばと足で波をかき分けて彼女がこちら側にやってくる。波のゆく、その先へと。

「まあ、今は特別なわけだけどね」

 

だったら、僕が今の彼女にできることは。

  

 

 

  

 太陽はとっくに僕らの頭上に傾いていた。

日差しが木々の隙間を縫って僕らに降り注ぐ。

次に彼女が向かったのは、山だった。

 

僕が今のめぐるにできること。それはひどく簡単なことだった。

『彼女の行きたい場所についていく』

ただそれだけのことだった。

だけど、こういうことは一人で感じるより誰かと共有したほうが楽しくなるだろう。そして誰も信じないかもしれないけれど。彼女の死を悲しんでいた人たちに、彼女が楽しんでいた思い出を伝えていくことが、彼女のための僕ができることだと思った。

 

病院から逃げるように自然の中に溶け込んでいく彼女は、ちょっとした冒険をしている気分なのかもしれない。

山道を逸れ、人気のない自然の中。立ち入り禁止の看板を無視して、僕らは奥へと進んでいく。誰にも見つからないように。

太陽の光が彼女の顔に当たって、少しだけ肌の色が僕と同じように見えた。くるくると体を回しながら、今しか見れない景色を目に焼き付けているんだろう。

生きていたら決して見れなかったこの緑の隙間から見える空を。死んだからこそ感じることのできた土の柔らかさを。

 

 

 だけど、そんな夢物語、そう長く続くはずがなかった。

おとぎ話なら、このまま二人で楽しくいつまでも過ごせたのかもしれないけれど、現実はうまくいかない。

「あれっ」

彼女が体勢を崩した。そばに寄り添ってみてみると、どうやら足を何かに引っ掛けたみたいだった。

勿論、血は流れない。

「あはは、変なの」

笑う彼女の白い肌に刻まれた切り傷が、血で覆うことなくその中身を見せつける。黒く変色した中の肉が違和感を覚えさせる。一緒に傷がついた靴下に、血がにじんでいかない。

とにかく傷をふさごうとして、靴と靴下を脱がせて足を見ようとすると。

 

指先がすべてもげてしまった素足がでてきた。

 

絶句。

「……」

めぐるも今ようやっと気づいたみたいだ。

考えてみれば明らかだった。最初に海に入ったとき、何も感じなかったわけ。僕だって山を登るのが一苦労なのに、今まで共に歩いてきた彼女が息を切らすようす一つなかったこと。そして、朝方の寒い時間に僕のもとにやってきた意味。

脳が肉体に負担をかけまいとするリミッターが壊れているから、自分の体がどんな状況になっているのか、感覚で認識できないのだ。一度死体となって脆くなった肉体の指先が、何らかの衝撃によってもげようとも、彼女はそれを痛いとすら感じない。

生きているからこそ危機的状況に陥ると働いていた脳の器官が、今の彼女にとっては何の意味もなさないのだ。

 

そして安置室がとても冷えているわけ。

時間がたち、気温が上がってきたことによって、彼女の肉体からは異臭が漂っていた。

それは今まで嗅いだことのない臭いで、人間にとっては本能的に危険だと認識させる臭い。

死臭。そして腐乱臭。

「もう、限界来ちゃったみたいだね」

冷えていたから脆くならずに済んだ彼女の体が、立とうとしただけで足が逆に折れ曲がってもげてしまうくらいになっていた。

腐って行く。まるでさっきまであんなに動いていたことが奇跡だったかのように。

いや。紛れもなく奇跡だったのだろう。けど。

「やっぱり、そううまくはいかないよね…」

 

膝から下がなくなって、思うように動けなくなっためぐるを僕は抱きかかえようとする。

「ダメ」

彼女はそれを拒む。

「こんな状態で戻ったら、君が何言われるかわからないよ。だから、おねがい。」

 私をここに置いていって。

 

「それにね」

「もうあの建物の中は、退屈だよ」

涙を流していることに、彼女は気付いているのだろうか。

血は一滴も流れないくせに、涙は両の瞳からちゃんとながれていて。

それは僕が、僕にとって残酷な決断をさせるには充分なものだった。

 

 

 

 

 

 家に帰った僕のもとに、大勢の人々が訪れていった。

勿論、訪ねてきた内容は上下里めぐるについてだ。

安置室に置かれていたはずの彼女の遺体が突如として消え去り、行方知れずのまま。

誰もが不審な事件を想像したことだろう。

僕はすべての質問を受け流して、彼女の過ごしたあの数時間のことは語らずに終えた。どうせ誰も信じないから話してもよかったかもしれないけれど、このタイミングのせいで、彼女が感動を覚えたあの時間を悪い印象で受け取ってほしくなかったのだ。

結局、遺体は見つからないまま、囃し立てたテレビやネットニュースの中からは、徐々に彼女についての情報が薄れていった。

 

たまに、あの日と同じ道を通り、同じような景色をみる。だけど隣に彼女はいない。

山の中で静かにその肉体を腐らせながら眠りについたであろう彼女は、最期にどんな景色を見て、どんな感想を抱いたのだろうか。

あの日と同じような波が、僕の問いにただ打ち返してくるだけだった。